プロフィール

私は、神戸生まれの神戸育ち

1967年(昭和42年)8月2日生まれ。神戸市灘区・東灘区で幼少期を過ごし、私立青い鳥学園第一幼稚園・神戸市立東灘小学校に通いました。タクシー会社に勤務し、労働組合運動に励む父親と、家計を助けてパート職員で働く母親、5歳年下の妹と4人で暮らしてきました。7歳の夏に垂水区青山台に転居し、市立乙木小学校に転校。垂水東中学校時代には、個性あふれる若い先生方になんとなく魅かれ、将来は教員をめざそうと思うようになり、勉強と部活動に励みました。しかし、私はクラスではおとなしい存在でした。

タフな体をつくった高校生活

1983年、兵庫県立長田高校に進学。「部活動には必ず入らなければいけない」と訊き、バレーボール部に挑戦しましたが、「サウスポー」ということで一目置かれながらも、初心者の私は、周囲のレベルについていけず、途中で転部し、3年生の秋まで卓球部に在籍しました。「進学校」で知られる高校ですが、生徒の自主性を尊重する校風でした。当時の先生方の教育実践は、詰め込み教育よりも、学問の楽しさを私たち生徒に伝えてくださった思います。「体育の授業は厳しい」とも言われました。授業の前半は、神撫台(しんぶだい)という広いグラウンドでトラック1周・約500メートルをタイムを測って6周する「周回走」が恒例。体育は苦手でしたが、3年間で順次タイムを上げていき、クラスで2等でゴールした嬉しい思い出はいまでも鮮明に覚えています。雨の日はグラウンドの状態が悪いということで、器械体操や球技などはできませんから、50分間ひたすら走りっぱなし。私を今日、暑さにも寒さにも強いタフな人間にしたのは、長田の体育のおかげだと思います。今でも、走ることは全く苦になりません。また、ここというときに諦めない粘りや忍耐を身に付けさせてくれたと思います。

充実した大学生活

1986年、大阪教育大学小学校課程・社会科に進学。当時盛んだったバンドブームの影響を受け、「フォーク集団ぺんぺん草」という音楽系サークルに入り、フォーク系のバンド活動に挑戦しました。中ノ島の野外音楽堂や森之宮青少年会館などで、舞台設営や演奏をしたのは、いい勉強になりました。大教大は府下でも学生運動が盛んな大学でした。2回生のときに、学部の先輩の誘いで日本民主青年同盟に加盟し、直後に日本共産党に入党しました。「大学の自治を守り、学生の願い実現」を訴えて、「大教大池田分校学生自治会」の委員長選挙にも立候補したことがあります。そのころは、中国で天安門事件が勃発し、ソ連や東欧で政変が始まったころでした。教員を目指して選んだ大学でしたが、いつしか、「社会の仕組みを深く学びたい」と思い、経済学を志すようになりました。のちに大学院へ進学し、中国や台湾出身の留学生たちと親しく交流することができました。学部・大学院を通じた6年間の研究テーマは、欧州の共通農業政策。山陽電車・阪急電車で垂水から当時の「天王寺分校」まで、2時間かけて通学しながら、マルクスの「資本論」を読破しました。

“自分探し”にピリオド。社会に役立つ生き方を選ぶ

あっという間に過ぎ去った充実した大学生活。しかし、気づいてみると、まともに就職活動の準備をしなかった…。あわてて就職情報誌を閲覧し、須磨区の学習塾で専任講師となりました。小中学生が対象の塾でした。子どもたちから、「学校よりも塾のほうが楽しい」とよく言われました。お互いに学校の違うモノ同士が集う塾の方が居心地が良いと。側面からでしたが、子どもたちの学校生活の様子の一端を感じました。1995年の阪神淡路大震災、オウム事件…社会を震撼させた事件に子どもたちの心は明らかに動揺していました。「自分は、甘えた生き方をしていなかったか」─このころ、自らの生き方について考え直すようになりました。少子化の影響で塾も経営難に陥り、やがて倒産。一時、失業しました。当時、地域の共産党支部長をしていた私は、「ダメでもともと」のつもりで垂水の事務所を訪ね、地区委員長に「党で働きたい」と申し出ました。断られるだろうなと半分覚悟していましたが、幸いにも採用され、新しい人生がスタートしました。私に与えられた任務は、兵庫県委員会事務所で青年・学生分野を担当することでした。学生時代に民青同盟で活動していた経験を生かし、兵庫県下の高校生・学生・働く若者の願いを実現する運動をサポートする活動に明け暮れました。

日本共産党員として

2003年の春の神戸市会議員選挙で初当選をしました。2年後に地元の方と結婚。本多聞地区で暮らしています。1期目の議員活動では、神戸市内の小中学校での30人以下学級の実現、中学校での給食実施などを要求したり、開港後の神戸空港の問題点を指摘してきました。しかし、2007年の選挙で惜敗を経験しました。2011年のいっせい地方選挙で返り咲きを果たし、2013年度には都市防災委員会委員長を務めました。2017年度は、福祉環境委員会委員長を、翌2018年度は総務財政委員会副委員長を務めました。日本共産党神戸市会議員団の幹事長の経験もしました。前回の統一地方選挙では惜敗をしましたが、3期12年務めて来た神戸市議としての経験を今度は、国政分野に活かしていきます!私のモットーは、「困っている人をほっとけない」。座右の銘は、cool heads but
warm hearts(冷静な頭脳と温かい心)。日頃は生活相談活動、平和憲法を守る運動、核兵器廃絶の運動、消費税の減税を実現し、廃止する運動、社会保障を良くする運動などを垂水区で行ってきました。これからも地道に一生懸命がんばっていきます。