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震災から16年~1月17日をどう過ごしたか

16年前、私は須磨の学習塾で専任講師として働いていました。私立中学・高校の受験シーズンを直前に控え、教材研究に熱を入れていました。震災の当日は、何がなんだかわからず、街中で人が横たわって死んでいるという事実も実感として沸いてこず、あの日も、いつものように生徒を塾バスから迎えるつもりでいたほどのん気に構えていた私でした。しかし、電気もガスも来ない。しばらく電話も通じない…街中で人がたくさん死んでいるんだ、街が燃え続けているんだ!現実を現実として受け止めていくうちに、自身のふわついたこれまでの生き方への疑問と恥ずかしさを感じ始めたのもその瞬間だったと思います。全国から支援の輪が広がり、青年がボランティアに立ち上がり始めた!弁護士を志していた当時の友人とは、「こんなときに受験産業なんかやっててむなしいなあ」などと、互いに生き方について語り合うようにもなりました。さて今朝、久しぶりに諏訪山の展望台へ登り、早朝の追悼式に参列しました。午前5時46分は、氷水を体全体でまともに浴びているかのような酷寒の夜明け前でした。高台から見下ろす風景はまだ薄暗く、東の空の夜明けを首を長くして待ちわびているかのように、電気の光がビル街を横たわっていました。トランペット奏者・松平晃さんの音色は絹のようにやわらかく、”百万ドルの夜景”と響きあっているかのようでした。日中、市内各地で追悼集会がおこなわれましたが、私は参加を断念し、時間の合間を見つけて垂水区の災害公営住宅の各戸を訪ねることにしました。「兵庫区で全壊しました。今は落ち着いていますが、できることなら、前の家に戻りたい」「今は、夫の介護に付きっ切りです」「借り上げ住宅に住んでいらっしゃる方、これから大丈夫でしょうか?」とても寒い日に、突然家のチャイムを鳴らして訪ねた私に、ドアを開け話して下さった高齢の方々からの一言一言─。訥々とした訴え方から、神戸の現実が伝わって来ました。※写真は、諏訪山公園・ビーナスブリッジにて。午前6時過ぎ。