①
先月初め、誤嚥性肺炎を併発した母が、区内の病院に搬送された。
過去にもあったので、第一報を介護施設から受けたとき、私はそれほど驚かなかった。
ところが病院救急科の医師から、「きわめて危険な状態まで来ていました」と言われ、初めて動揺した。
その日の夕方、再度救急科から電話があり、「極めて厳しい状態にあるので、ご家族のみなさん、急いで集中治療室へ来てください」と言われた。
凍り付いた。
即座に妻と相談し、妹と3人で病院へ足を運んだ。
言わば、“最後の面会”であった。
母はとても苦しそうだった。
数日後に、医師からなんとか命の危険から回避されたとの連絡は入ったものの、意識はないとのことだった。
酸素不足の影響で他の臓器にも悪い影響が出ている。
要介護5で体力的にもハンデが大きい。
何週間たっても意識は戻らなかった。
脳の機能がどうなっているのかがとても心配だった。
この時点では医師にも誰にも分らなかった。
ある種の覚悟も強いられた。
②
ところが月末になって、病院側からから報告を受けた。
薬の睡眠作用から解放されたのか、なんと意識が戻ってきた!
コロナ禍のため、ICUには簡単に入れてもらえない。
看護師さんから写真と動画で母の様子を教えていただいた。
確かに意識があることを確認することが出来た。
看護師さんからの「赤田さん、息子さんがお見舞いに来たよ!」にかすかに母は反応した。
嬉しかった!
母は生きている!
主治医からは、「90%ダメだと診ていました。一種の奇蹟です」とも言われた。
…喜んだのもつかの間、10月に入る。
担当医から、「今後、食事は難しいでしょう。人工呼吸器を外すことも困難です。熱が下がりません。肺炎を併発しています。はっきり言って体全体がじり貧の状態です」と言われた…
私は母との面会はできたものの、その表情から再度の”覚悟”を迫られた。
③
母が入院してから数日後、妹も別の病院へ緊急入院することになった。
妹は30年以上前から統合失調症に苦しめられている。
ある日の夜、「死にたい」と、酷いパニック状態に陥り、医療保護入院をさせた。
妹は看護師に「うちの母はもう長くないんです」と告げていた。
病状からして外出に危険を伴うが、病院側から特別に許可を頂いて、母の病院へ行くことになった。
妹と妻と私と。
覚悟を決めての最後の面会になるかも知れない。
母の主治医から説明を受けた。
「肺炎が落ち着いてきました」。
私たちは胸をなでおろした。
それから病棟へ上がり、母との短い時間の面会が叶った。
人工呼吸器を付けた母は、“言葉”を発せられない。
口パクで「のどが渇いた。水が欲しい」と言っているようだった。
しかしそれは、私たちにとっては先月救急搬送されて以来、母との初めてのコミュニケーションともいえるものだった。
妹は涙して、「お母さん、ごめんね。お母さんの娘で良かった。私も頑張って生きるからね!」。
母の眼にも涙が浮かぶ。
返事を返そうとするたびに、むせ返してとても苦しそうだった。
会話はできない、口からの食事もできない。
むくんだ手を動かそうと必死で動かそうとしていた。
人工呼吸器を外すことはできない。
しかし、いま母は生きている!
病院側の治療と母の頑張りから強い生命力を感じた!!
“生きる”って素晴らしい。
長期の難病と向き合う妹から初めて聞いた「私も頑張って生きる」。
…母と娘。2人の対面を私は忘れまい。
◇ ◇ ◇
77歳の母。もっともっと生きて行ってほしい。
苦しそうだけれど、頑張って生き抜こうと、闘っている。
生きるって素晴らしい。