今朝は、東灘区・灘区・中央区の党と後援会の決起集会からスタートしました。
場所は灘区・王子公園内にある動物園ホール。
写真は始める前に撮っていただいた写真です。
※左から、味口としゆき神戸市議(灘区)、中央区から市会へ挑戦する大野さとみさん、こむら潤予定候補、私の右隣がきだ結兵庫県議(東灘区)、西ただす神戸市議(東灘区)
同じ神戸市でも、私にとって全く初めての場所。
それでも不思議な御縁で、会場に私を訪ねて来た方が。
実は、昨年の総選挙直前に実母が他界しましたが、そのことを聞きつけて元看護師のSさんが私に手紙と写真を届けてくださいました。
母の職場の元同僚の方です。
母は生前、妹にはSさんとの思い出話をしていたようで…。
「もう20数年前になるのですが、お母さんは、外来センターで言わば外来の顔として、生き生きと仕事をこなされていました。診察や検査の予約、電話対応、カルテの準備など嫌な顔しないでいつも笑顔でした」。
私が全く知らなかった母の姿を知ることが出来ました。
党のつながりと温かさを実感した瞬間でした。
妹に早く写真と手紙のことを伝えたいと思います。
決起集会では、比例候補としての決意表明。
残念ながらすぐに、会場を後にして午後から北区へ。
朝倉越子神戸市議と鈴蘭台地域を宣伝カーで回りました。
どこでも、地元の党の方がたくさん出てきてくださり、盛り上がりましたね!
夕方は三宮駅北側の広場で民青同盟の方々が主催する企画に参加しました。
低賃金と男女の賃金格差について、性暴力やDVについて、性の多様性について、校則について、戦争と平和について、質問が出されました。
普段あまり聞かれることがなかったり、強い問題意識はあっても、他人(ひと)に考えを話す機会の少ない質問内容が多かったです。
貴重な時間でした。
①
先月初め、誤嚥性肺炎を併発した母が、区内の病院に搬送された。
過去にもあったので、第一報を介護施設から受けたとき、私はそれほど驚かなかった。
ところが病院救急科の医師から、「きわめて危険な状態まで来ていました」と言われ、初めて動揺した。
その日の夕方、再度救急科から電話があり、「極めて厳しい状態にあるので、ご家族のみなさん、急いで集中治療室へ来てください」と言われた。
凍り付いた。
即座に妻と相談し、妹と3人で病院へ足を運んだ。
言わば、“最後の面会”であった。
母はとても苦しそうだった。
数日後に、医師からなんとか命の危険から回避されたとの連絡は入ったものの、意識はないとのことだった。
酸素不足の影響で他の臓器にも悪い影響が出ている。
要介護5で体力的にもハンデが大きい。
何週間たっても意識は戻らなかった。
脳の機能がどうなっているのかがとても心配だった。
この時点では医師にも誰にも分らなかった。
ある種の覚悟も強いられた。
②
ところが月末になって、病院側からから報告を受けた。
薬の睡眠作用から解放されたのか、なんと意識が戻ってきた!
コロナ禍のため、ICUには簡単に入れてもらえない。
看護師さんから写真と動画で母の様子を教えていただいた。
確かに意識があることを確認することが出来た。
看護師さんからの「赤田さん、息子さんがお見舞いに来たよ!」にかすかに母は反応した。
嬉しかった!
母は生きている!
主治医からは、「90%ダメだと診ていました。一種の奇蹟です」とも言われた。
…喜んだのもつかの間、10月に入る。
担当医から、「今後、食事は難しいでしょう。人工呼吸器を外すことも困難です。熱が下がりません。肺炎を併発しています。はっきり言って体全体がじり貧の状態です」と言われた…
私は母との面会はできたものの、その表情から再度の”覚悟”を迫られた。
③
母が入院してから数日後、妹も別の病院へ緊急入院することになった。
妹は30年以上前から統合失調症に苦しめられている。
ある日の夜、「死にたい」と、酷いパニック状態に陥り、医療保護入院をさせた。
妹は看護師に「うちの母はもう長くないんです」と告げていた。
病状からして外出に危険を伴うが、病院側から特別に許可を頂いて、母の病院へ行くことになった。
妹と妻と私と。
覚悟を決めての最後の面会になるかも知れない。
母の主治医から説明を受けた。
「肺炎が落ち着いてきました」。
私たちは胸をなでおろした。
それから病棟へ上がり、母との短い時間の面会が叶った。
人工呼吸器を付けた母は、“言葉”を発せられない。
口パクで「のどが渇いた。水が欲しい」と言っているようだった。
しかしそれは、私たちにとっては先月救急搬送されて以来、母との初めてのコミュニケーションともいえるものだった。
妹は涙して、「お母さん、ごめんね。お母さんの娘で良かった。私も頑張って生きるからね!」。
母の眼にも涙が浮かぶ。
返事を返そうとするたびに、むせ返してとても苦しそうだった。
会話はできない、口からの食事もできない。
むくんだ手を動かそうと必死で動かそうとしていた。
人工呼吸器を外すことはできない。
しかし、いま母は生きている!
病院側の治療と母の頑張りから強い生命力を感じた!!
“生きる”って素晴らしい。
長期の難病と向き合う妹から初めて聞いた「私も頑張って生きる」。
…母と娘。2人の対面を私は忘れまい。
◇ ◇ ◇
77歳の母。もっともっと生きて行ってほしい。
苦しそうだけれど、頑張って生き抜こうと、闘っている。
生きるって素晴らしい。
昨日、妻、親戚と大阪の住吉大社に行ってきました。
3日もたくさんの参拝客でした。
「太鼓橋」は、急な階段でしたね。
「交通安全」祈願のお守りとおみくじを買ってきました(自分にも意外と信仰心があるのかも…)。
おみくじは「小吉」でした。
なんや…と最初は思ったのですが、書いている中身を読んでみると、「このみくじにあう人、慾(よく)深い心の萌し(きざし)がある。」
う~ん、そうかなあ…。
でも、
「〇対人運 人に助けられて今日あるを思い出すことです。
〇金運 足るを知ることが大切です。
〇仕事運 一歩一堅実に。
〇幸運のカギ 身を飾るより心を飾ろう。」と。
これは、自分に言えることかも(p_-)
特に仕事については、“一歩一歩堅実に”をモットーにしてきたいと思います(^^ゞ
今年の正月、母と妹が居る実家に立ち寄りました。
年末に退院してきた母の様子を観に行くのが目的。
介護用のベッドを搬入するために、部屋を整理していたら、2個のバッジを妹が見つけてくれました。
小学校の校章入りのバッジです。
右は東灘小学校の時のもの。
左が乙木小学校の時のもの。
父が大事に保管していたと。
43年前に転勤で東灘区から垂水区に。
「須磨の向こうにまだ神戸市があったのか!」
ジェームス山という聞きなれない、静かな丘の上。
これまでよりも少し広く、しかも風呂付の団地に住めることになり、家族で喜び合ったこと、全然知らない学校に転校してきて、友達ができるかなと不安に思ったことがあってことを思い出しました。
まあ、よくも大事に置いてくれていたものだなと、感謝しています。
写真は、先日私のブログに掲載しました親戚のりゅうちゃん。
まだ1才と5ヶ月です。
場所は舞子公園。
遊びにいきました(?うーん、ほんとは…微妙…)
まだ、会話はできませんが、「おつむてんてん」「どうぞ」くらいは言えてるな(*´∀`)
つい1年前に産まれたばかりの子が、よちよちと歩けるようになるのを見るにつけ、こどもの成長って早いな!と、感動してしまいます(* ̄∇ ̄)ノ
お母さんは、非正規で四六時中働くがんばり屋さん。
でも、保育園を申し込んでもぜんぜん、当たらず、駅前の小規模保育園にお世話になったとか。
また、1年たてば、もっとお兄ちゃんになっているんだろう\(^_^)/
人間の成長って素晴らしい。