写真は、鮫川の河口付近です。鮎が泳ぐそうで一見、透き通ったきれいな川にしか見えません。ところが、上流より放射能が検出され、今では近づくことさえできません。本当に残念です。「よごさない 川はみんなの宝物」─写真左の立て札を誰に向けるべきでしょうか?いわき市は県内でも放射能の検出量が比較的少ない地域ですが、私たちが避難所や各家庭を訪問すると、必ず放射能のことが話題になります。「夏になると風向きが変わるのでこちらに放射能が来るのではないかと考えると、とても不安です」「4月11日の直下型地震で屋根が壊れ、一部屋が水浸しになりました。放射能が怖いので、家具を全部片付けました。この部屋には入らないようにしています」不安を隠しきれない様子でした。楢葉町から、緊急避難してきた若いお母さんからは、「子どもが小学校でいじめられました。でも、家のローンを払わなければいけないし。東電に払ってもらいたい!もう、家には戻りたくない!」とも言われました。また、別の親御さんからは、「学校のグラウンドが使用できなくなり、野球部員の息子は練習ができないんです」と。原発事故は人の心を傷つけています。福島は自然に恵まれた美しいところと、誇りに思っていた住民のみなさんから、「これからの福島はどうなるんだろう…」「最高に美しい県から最低の県になってしまった!悔しい」と言われたとき、私たちは何一つ返す言葉をもてませんでした。
植田町根小屋地区にて。地震のときに、写真正面の火力発電所も、異様な”爆発音”がしたとのことです。
いわき市へ行き、対話をして気づいたことは、3・11の大災害だけでなく、4月11日に起こったマグニチュード7・震度6級の直下型地震のことでした。私たちが行ったときも、何度も余震が起こりました。閑静な戸建ての住宅街でも、屋根瓦が崩れ、ブルーシートを張っている自宅が本当に多かったです。一軒一軒を訪ねてみると、4月の地震で家屋が破壊され、自宅の基礎部分が崩れ、数百万円掛けて本腰の修築工事をせざるをえない家庭が少なからずありました。「福島県には地震と台風はないと思って移り住んできたのに…」と苦笑する方もいました。問題だなと思ったのは、被災者生活再建支援法などによる公的な個人補償制度が不十分ながらも存在していても、罹災証明を提出した人たちに周知されていないことです。「ウチは『半壊』と診断されたよ。えっ、『大規模半壊』って判定もあるの?もらえるのは義捐金だけかと思っていました」「市の職員は見には来てくれたけど、ウチの中までは見に来なかったよ」「そんな制度があることを知らなかったし、ウチはまだマシだから、自腹を切って家を修築してしまった」。わが議員団の山本純二議員が、最新の情報を元に被災住民向けにわかりやすく整理した個人補償制度の一覧表を作成しました。私たちは訪問先の各家庭にお知らせしましたが、地震と津波でどこに相談していいのかわからず困惑している人たちが、十分活用できるように行政として責任をもつべきです。
勿来(なこそ)地区の避難所を訪ねました。市民会館、体育館、スポーツパークで、それぞれ数十人の方々が生活を送っておられました。母親の介護が理由で会社を辞めた矢先に3・11の災害に遭ったある若い女性は、「高1と中1の子どもを抱え、生活するお金がありません。仮設住宅に入りたいが、いわき市はつくらない。雇用促進住宅に入る方法もあるが、海に近いからねえ。それに子どもの学校のことを考えると、いわき市から出て行くわけにもいかないし…」。また、ある老夫婦は、「原発に近い楢葉町から非難してきました。田畑を残してきたのです。ここはお風呂が不便です。週に一度だけ無料で入れるが、後は自己負担。これから暑くなっていくからねえ。ああ、野菜が食べたい。いつになったら帰れるのだろう。血圧が上がるし…先が見えない。何を言ってもどうにもならないわ」。すでに約3ヶ月が経過。これからも避難所生活が続くとなると、本当に気の毒でなりません。”住まいは人権”です!
「地震と台風がない街と思って住み着いたひとが多いんですよ」─私たちが訪ね歩いた、いわき市の人たちから、美しくのどかな自然環境に恵まれた街への深い愛着と誇りが伝わってきました。「でも、あれから海の色が濃くなった。波の音が凄くなった。磯が見えなくなってしまった。防波堤が壊されてしまい…海が怖いです」最初に訪れた、いわき市平薄磯地区は、アワビやうにの栽培漁業、かまぼこの生産が盛んなところだったそうです。美空ひばりさんの”みだれ髪”の歌碑と遺影碑が建っていたそうですが…「私の娘は10メートルくらいの高さの津波に飲み込まれました。一階の自宅の柱にしがみついたから引き波にさらわれずにすんだのです。まったく不幸中の幸いでした」120人の住民の命をさらっていった大津波。倒壊した信用組合(写真)でも2人職員が命をさらわれたそうです。「水の力は恐ろしい」─私たちを案内してくれた人たちの語った言葉を思わず、私はノートに書き留めました。かつてマリンスポーツファンからも慕われた太平洋にのぞむ美しき海岸はいまや、白亜の塩屋埼灯台(写真☆)が残るだけ。瓦礫の山と化した薄磯地区に立ち並ぶ民家のほとんどは解体撤去されますが、中には、「解体しないでください」との張り紙をつけた民家跡もありました。若い人が住んでいたかもしれないコテージ風の家でした。「車3台を流されてしまった。いままで固定資産税を払ってきたんだぞ!土地を買い上げてほしい…」人災に対する強い怒りと見通しのもてない生活、やるせない心情を、かまぼこ工場を経営していた60代の男性が吐露する一言一言に、私は返す言葉がありませんでした。
(写真☆;海岸の向こうの山の上に塩屋埼灯台がそびえたっています)
生活相談所は高齢者が気軽に休憩しに来られる憩いの場でもあります。87歳のSさんは週に3~4回来所し、「うちらの戦争体験を聞いてくれるのは、ここの人たちだけや」と散歩の途中に立ち寄り、なかなか聴くことのできない沖縄戦の体験談を語ってくださいます。細身で長身、姿勢よく椅子に腰掛け、「軍隊というものは本当に厳しいんだよ。みんな本音では戦争には反対だった。でもそんなことは絶対に言えなかった…」と、切々と語るSさん。金沢の第九師団に入営し、軍旗の護衛兵の任務に就き、1944年10月10日の那覇大空襲を体験しました。「私はたまたま墓の下に隠れたから助かった。外にいた人は全滅やった」迫力ある証言です。「戦争は生身の人間が行くんだ。病気の人は捨て去られ、その日のうちに死者を焼いてしまう。そのとき、人間は国家の消耗品かと思った」。