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私の学生時代

「うわッ!!寝坊した!また1限目の単位落としたあ(>_<)」

…30数年前、大学生だった頃の出来事をいまだに何度も夢に見ることがあります。

大学に入りたての頃は、授業にはロクに出ることもなく音楽サークル活動やアルバイトに時間を費やしていました。

時は1980年代。

私は1960年代後半生まれの謂わば、“新人類”と呼ばれた世代です。

もはや当時の学生運動は全国的に下火になっていましたが、母校の大阪教育大学は比較的活発でした。

でも、私は初めから民青同盟や日本共産党に接近していったわけではありませんでした。

むしろ、「政党とは距離を置きたい」と考えていました。

2回生の後期が大学生活の”転換期”でした。

先輩党員達が大学授業料の負担軽減、ボロボロに傷んだ校舎の改善を求めることなど身近で切実な要求に正面から取り組む姿に出会いました。

マルクス・エンゲルス・レーニンなどの古典を読むのは当たり前。

先輩たちの知的な輝きに接することもできました。

“頑張れば政治も社会も変えられるんやで!”と先輩たちから、度々教わりました。

日本共産党と民青同盟の大阪府委員会も学生をとても大事にしてくれたと思います。

そういった刺激を受けてか、神戸から大阪まで片道2時間の通学中に、兎にも角にもマルクスの「資本論」を第3部まで読破できたことも良かったと思います。

日本共産党との出会いをつくってくれた大学生活。とても楽しかったです。

※これは、以前に「明舞後援会ニュース」に寄稿したものを一部修正したものです。

大学で日本共産党と出合う

国政での出馬を表明して市民団体やマスコミから、「政治家を志したきっかけは?」と尋ねられることがあります。

答えは─「志したことはありません」です。

ただ、私はこどもの頃から政治家を身近な存在として感じれる環境で育ったのかもしれません。

私の祖父は、保守系の政治家でした。香川県の小さな町(現在の綾川町)の町長を務め、よく話を聞いたものでした。

私は大学2回生の時に入党しました。

時は1980年代。

学生運動は全国的に下火になっていましたが、母校の大阪教育大学は比較的活発でした。

でも初めから民青同盟や日本共産党に接近していったわけではありません。

「政党とは距離を置こう」とか、「ソ連の核実験を批判するのは間違いじゃないか?」などと考えていました。

しかし、大学授業料の負担軽減や、ボロボロに傷んだ校舎の改善を求めることなど学生の願いや要求運動に正面から取り組んでいる先輩たちと出会い、信頼を寄せて20歳で入党しました。

あれから30数年。

3期12年間、神戸市議を務めさせていただいたことは、当時の私からみれば全く考えられなかったことですし、貴重な経験をさせていただきました。

今度は国政です。

総選挙で決着をつけ、政治を変えましょう(^^)/!

※この投稿は、以前に明舞後援会ニュースに寄せたものを一部修正したものです。

高校時代の思い出

  • 古い話ですが、私は県立長田高校の第38回卒業生です。

    「進学校」などという“勉強”のイメージが強い同高ですが、私が在籍していたころはとても自由な校風でした。

    昔の学生運動で「制服」が廃止され、私服通学OKでした(現在は知りませんが)。

    先生からも「勉強しろ」と言われることはほとんどありませんでした。

    授業は、ガウスやユークリッドなど大数学者の人生を生き生きと語る数学の先生、「しんぶん
    赤旗」の「潮流」を使う日本史の先生、ネパール探検記を授業そっちのけでスライド上映する生物の先生、性教育に熱心な保健体育の先生、また、…侵略戦争の恐ろしさを英語で学んだこともありました。受験のテクニックではなく、学ぶ喜びをたくさん教わった気がします。

    私は塾や予備校には一切行かず、勉強はあまりしませんでした。

    というか、受験勉強に嫌気がし、集中しませんでました。

    だから友達からは、「赤田はのんきやな。実はみんな予備校で頑張ってるねんで!」と言われもしました。

    クラブ活動は卓球部。高3の秋まで続けていました。

    3年間での最大の収穫は、何といっても体育。

    毎回の授業の開始時に生徒全員が“周回走”というランニングをします。

    男子で3000メートル。

    神撫台(しんぶだい)という小高い丘の上のだだっ広いグランドを雨の日も風の日も…。

    高校3年生の時にクラスで2番目のタイムを記録した時はとても嬉しかったですね。

    おかげさまで、今でも体力には自信があります。

    恩師の先生方とは今でも親交があり、個人的に応援していただいています。

    ※実はこの短文は、2019年5月に「明舞後援会ニュース」に寄稿したものを若干加筆・修正したものです。

  • ジェンダー 私の視点

    党は昨年6月に、「個人の尊厳とジェンダー平等のために─差別や分断をなくし、誰もが自分らしく生きられる社会へ」を発表しました。

    女性に対する暴力について、性暴力被害者への支援対策の抜本的強化、刑法の性犯罪既定の抜本改正などを求めています。

    これらは焦眉の課題です。

    私も性暴力被害者からの体験を聞いてきました。

    加害者から受けた地獄のような記憶を消し去ることは容易でなく、つらく苦しいその後の人生を背負わされます。

    家族の幸せまで奪うことにもなり、加害者の功罪は計り知れないと思います。

    杉田水脈衆議院議員による日本軍「慰安婦」問題研究への誹謗中傷、「女性はいくらでもうそをつけますから」なる数々の暴言、それに対して議員辞職もヘイトスピーチへの謝罪や撤回も求めない自民党の対応を絶対に許してはなりません。

    私は「市民とジェンダーの核軍縮」(川田忠明著・新日本出版社)を読みました。

    日本軍国主義による侵略戦争を含め、世界は武力紛争のもとで、凄惨かつ広範囲な性暴力により、多数の犠牲者を生む歴史を経験してきました。

    性暴力は決して偶然発生したものではなく、それ自体が戦争の手段や戦術であり組織的犯罪だということを学びました。

    そして、核軍縮、国際平和の進歩・発展に、女性が参加し発言をすることでより良い結果を出してきているという歴史的事実を学びました。

    平和にとってジェンダーの観点は欠かせません。

    ところで私はある集まりで、「(個人の尊厳やジェンダー平等といった)理念よりも、生活をなんとかしてください」と言われたことがあります。

    深刻な不況で生活が追いつめられている様子でした。

    またある日の夕方、須磨区で街頭宣伝中に若い男性から、「私は今日の民主主義は女性のおかげだと思います。

    ジェンダー平等社会実現のために共産党と赤田さんに期待をしています」と握手を求められたこともありました。

    暮らしの向上・平和・自由・民主主義の発展とジェンダー平等の実現は一体不可分です。

    「赤旗」に掲載された嬉しい記事

      “ウクライナで倒壊された共産主義者の偶像がイングランドで修復される”─
      エンゲルスの彫像がイギリスの大都市、マンチェスターで再建された記事が、先日の日刊「しんぶん赤旗」に掲載されました。

      2017年に市議会決議に基づき、同市に建てられることになったのです。

      マンチェスターはエンゲルスとその父が大工場を経営していた町です。

      元になる記事は2017年8月6日付の米紙・ニューヨークタイムズ。

      マンチェスターでは、96人中94人が労働党の市議会議員で占めていて、社会主義に好意的な強い気風があるようです。

      今年の労働党党首選挙の候補者として善戦した、愛称“ベッキー”ことレベッカ・ロングベイリー下院議員もマンチェスターが基盤の女性議員です。

      エンゲルス像再建に直接手掛けたのは、芸術家のフィル・コリンズ氏。旧ソ連崩壊後に倒壊されたので、見つけるだけでも困難を極めたようです。

      東ウクライナ地方のポルタヴァという町で上半身と下半身が半分に割れた状態で発見されたものを、エンゲルスの生誕地・ドイツのバルメン(現在のブッパータール市の一部)を経由して実現するまでに10年越しだったそうです。

      高さは12フィート(約3.65ートル)。

      エンゲルスは今日でも、マンチェスターでは深く敬愛され、2017年にセレモニーが行われたのは、はロシア革命(1917年)の100周年を記念してのものだそうです。

      「マルクスの理論そのものには問題があるのではなく、旧ソ連や東欧の政権が全体主義と圧政を強いたことが問題なのです」と語った市民のコメントも紹介されていました。

      続けて記事にはこう書かれています。

      「彫像を新たに建てたことは、市のエンゲルスへの敬意にとどまりません」と。

      地元のソルフォード大学では、「エンゲルス像の誕生は、次の世代の芸術家、音楽家、役者を奮い立たせる」と主張しています。

      また、エンゲルス像が新天地に来たことによって、町の人々が考え、議論することを期待する声も紹介しています。

      セレモニーを主催した方たちは、公正な社会実現のために市民がこれまで以上に政治的に目覚め、団結することを願っているようです。

      イギリスではかつての植民地支配を推進した権力者や積極的に協力した有力者の銅像が次々と撤去されてきています。

      マルクスとともに科学的社会主義の創始者の一人として奮闘したエンゲルスを資本主義の大国で、日本共産党のような政党が存在しない国で、市を挙げて建立される。

      とても嬉しく読みました。

    上井草球場の資料を買いました(^O^)/

    今年の夏はコロナ禍のため、県外に出ることなく過ごしてきました。

    昨年夏のことを書きます。

    杉並区立郷土博物館というところを訪れました。

    閑静な住宅街にありながらも、なかなか風情のある外観の博物館です。

    当博物館を知ったきっかけは、プロ野球。

    何気なくインターネットを検索したいたら、上井草球場にまつわる資料を販売していることを知ったからでした。

    上井草球場──黎明期のプロ野球(当時は、職業野球と言われていました)の専用球場です。

    「東京球場」と呼ばれていたようです。

    私は飛びついて杉並まで、盆の休みを利用して足を運びました。

    写真が、お目当てにしていた2冊の資料です。

    以前に特別展を行った時のものだそうです。

    1936(昭和11)年に落成しました。

    後楽園球場が完成する前の職業野球のメッカでした。

    両翼が100メートル余りあります。

    30000人弱を収容できたそうですから、学生野球のメッカである神宮球場に勝るとも劣らない造りだったそうです。

    「またメーン・ハウスの2階を休憩室にしてお茶を飲みながら野球を見れるようになっているのも一寸(ちょっと)嬉しい設計である」(1936.8.25付「讀賣」)と当時の新聞が報じています。
    (新聞記事は、東京ドーム内にある野球殿堂博物館で入手しました)

    この球場を本拠地にしていたのは、東京セネタースというチームでした。

    苅田久則選手(監督も兼任)や野口二郎投手はあまりにも有名です。

    戦後はプロだけでなく、東京六大学野球や軟式野球の試合にも使用されましたが、次第に野球よりも他のスポーツレクリエーションへの要望が強くなったようです。

    プロ野球の最後の試合は1950年8月(4日の東急フライヤーズvs毎日オリオンズ戦、阪急ブレーブスvs大映スターズ戦)でした。

    現在は、杉並区立のスポーツセンターになっています。

    70年前までプロ野球で使用されていたことについては、”知る人ぞ知る”といった感じ。

    貴重な資料に巡り合えてよかったです。


    (とある日、自宅の近くで。私は左利きです)

    まあ、とにかくコロナ禍が収束したら、野球の観戦に行きたいな!

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