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被災地に足を運ぶ⑦

4泊5日間の短い活動でしたが、たいへん勉強になりました。全く知らない地域へ足を踏み入れ、「神戸から支援に来ました。何かご要望はありませんか?」と語りかけるだけで、たいへんよろこばれてきました。神戸の震災と比べても、支援の手が本当に届いていない。そしてあまりにも広大すぎる。神戸に帰ってから自分たちになにができるのだろうか?考えさせられた5日間でした。早速始めたのが、原発からの撤退を求める署名です(写真は、5月30日早朝、舞子駅で)。フクシマの悲劇は決して、遠く離れたところの問題ではない。誰もがそう感じていると思います。早朝に通勤などで急いでいる人たちに訴えると、「ありがとう!」と言って、立ち止まって署名してくださった方もいます。「これからの福島はどなるんだろう…」と語ってくれたいわき市の女性の一言が、今回の活動を通じ、私にとっては最も象徴的な言葉でした。この国のあり方、社会のあり方が鋭く問われている。そんなときこそ、国民の前に打って出て、国民の願う新しい政治への展望を示すことができるわが党の出番です。

被災地に足を運ぶ⑥

 私たちは、日本共産党からの支援部隊として今回のボランティア活動に参加しました。あらためて感じたことは、地元の共産党のみなさんの奮闘振りです。事務所には、連日、地元の党員の方々(決して若くはありませんが)が詰め掛け、炊き出しや避難所訪問などをしておられました。なかでも、宮川えみ子県会議員は、震災前から再三、福島原発の危険性を取り上げ、津波対策の強化を申し入れ、地元では、”すぐに動く身近に頼れる人”として、その存在を知らない人は、ほとんどいない様子でした。私たちといっしょに避難所を訪ねたときも、被災者から出された要望を事務所に帰るとすぐに当局に電話し、夜半に申し入れ書を作成して翌日、交渉にあたっておられました。訪問先では、「初めて訪ねてきてくれた。共産党さんだけですよ。話を聞いてもらえるだけでもうれしいです」と、私たちに笑顔を振り向けてくれた方にもたくさん出会いました。不安とストレスを抱え、これからの見通しが全く立たない現実と向き合う住民のみなさんの願いを本当に実現することが、いま強く求められており、私たちの出番です。

被災地に足を運ぶ⑤

写真は、鮫川の河口付近です。鮎が泳ぐそうで一見、透き通ったきれいな川にしか見えません。ところが、上流より放射能が検出され、今では近づくことさえできません。本当に残念です。「よごさない 川はみんなの宝物」─写真左の立て札を誰に向けるべきでしょうか?いわき市は県内でも放射能の検出量が比較的少ない地域ですが、私たちが避難所や各家庭を訪問すると、必ず放射能のことが話題になります。「夏になると風向きが変わるのでこちらに放射能が来るのではないかと考えると、とても不安です」「4月11日の直下型地震で屋根が壊れ、一部屋が水浸しになりました。放射能が怖いので、家具を全部片付けました。この部屋には入らないようにしています」不安を隠しきれない様子でした。楢葉町から、緊急避難してきた若いお母さんからは、「子どもが小学校でいじめられました。でも、家のローンを払わなければいけないし。東電に払ってもらいたい!もう、家には戻りたくない!」とも言われました。また、別の親御さんからは、「学校のグラウンドが使用できなくなり、野球部員の息子は練習ができないんです」と。原発事故は人の心を傷つけています。福島は自然に恵まれた美しいところと、誇りに思っていた住民のみなさんから、「これからの福島はどうなるんだろう…」「最高に美しい県から最低の県になってしまった!悔しい」と言われたとき、私たちは何一つ返す言葉をもてませんでした。

植田町根小屋地区にて。地震のときに、写真正面の火力発電所も、異様な”爆発音”がしたとのことです。

被災地に足を運ぶ④

 いわき市へ行き、対話をして気づいたことは、3・11の大災害だけでなく、4月11日に起こったマグニチュード7・震度6級の直下型地震のことでした。私たちが行ったときも、何度も余震が起こりました。閑静な戸建ての住宅街でも、屋根瓦が崩れ、ブルーシートを張っている自宅が本当に多かったです。一軒一軒を訪ねてみると、4月の地震で家屋が破壊され、自宅の基礎部分が崩れ、数百万円掛けて本腰の修築工事をせざるをえない家庭が少なからずありました。「福島県には地震と台風はないと思って移り住んできたのに…」と苦笑する方もいました。問題だなと思ったのは、被災者生活再建支援法などによる公的な個人補償制度が不十分ながらも存在していても、罹災証明を提出した人たちに周知されていないことです。「ウチは『半壊』と診断されたよ。えっ、『大規模半壊』って判定もあるの?もらえるのは義捐金だけかと思っていました」「市の職員は見には来てくれたけど、ウチの中までは見に来なかったよ」「そんな制度があることを知らなかったし、ウチはまだマシだから、自腹を切って家を修築してしまった」。わが議員団の山本純二議員が、最新の情報を元に被災住民向けにわかりやすく整理した個人補償制度の一覧表を作成しました。私たちは訪問先の各家庭にお知らせしましたが、地震と津波でどこに相談していいのかわからず困惑している人たちが、十分活用できるように行政として責任をもつべきです。

被災地に足を運ぶ③

勿来(なこそ)地区の避難所を訪ねました。市民会館、体育館、スポーツパークで、それぞれ数十人の方々が生活を送っておられました。母親の介護が理由で会社を辞めた矢先に3・11の災害に遭ったある若い女性は、「高1と中1の子どもを抱え、生活するお金がありません。仮設住宅に入りたいが、いわき市はつくらない。雇用促進住宅に入る方法もあるが、海に近いからねえ。それに子どもの学校のことを考えると、いわき市から出て行くわけにもいかないし…」。また、ある老夫婦は、「原発に近い楢葉町から非難してきました。田畑を残してきたのです。ここはお風呂が不便です。週に一度だけ無料で入れるが、後は自己負担。これから暑くなっていくからねえ。ああ、野菜が食べたい。いつになったら帰れるのだろう。血圧が上がるし…先が見えない。何を言ってもどうにもならないわ」。すでに約3ヶ月が経過。これからも避難所生活が続くとなると、本当に気の毒でなりません。”住まいは人権”です!

被災地に足を運ぶ②

「地震と台風がない街と思って住み着いたひとが多いんですよ」─私たちが訪ね歩いた、いわき市の人たちから、美しくのどかな自然環境に恵まれた街への深い愛着と誇りが伝わってきました。「でも、あれから海の色が濃くなった。波の音が凄くなった。磯が見えなくなってしまった。防波堤が壊されてしまい…海が怖いです」最初に訪れた、いわき市平薄磯地区は、アワビやうにの栽培漁業、かまぼこの生産が盛んなところだったそうです。美空ひばりさんの”みだれ髪”の歌碑と遺影碑が建っていたそうですが…「私の娘は10メートルくらいの高さの津波に飲み込まれました。一階の自宅の柱にしがみついたから引き波にさらわれずにすんだのです。まったく不幸中の幸いでした」120人の住民の命をさらっていった大津波。倒壊した信用組合(写真)でも2人職員が命をさらわれたそうです。「水の力は恐ろしい」─私たちを案内してくれた人たちの語った言葉を思わず、私はノートに書き留めました。かつてマリンスポーツファンからも慕われた太平洋にのぞむ美しき海岸はいまや、白亜の塩屋埼灯台(写真☆)が残るだけ。瓦礫の山と化した薄磯地区に立ち並ぶ民家のほとんどは解体撤去されますが、中には、「解体しないでください」との張り紙をつけた民家跡もありました。若い人が住んでいたかもしれないコテージ風の家でした。「車3台を流されてしまった。いままで固定資産税を払ってきたんだぞ!土地を買い上げてほしい…」人災に対する強い怒りと見通しのもてない生活、やるせない心情を、かまぼこ工場を経営していた60代の男性が吐露する一言一言に、私は返す言葉がありませんでした。

(写真☆;海岸の向こうの山の上に塩屋埼灯台がそびえたっています)