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ヒマができたら

今は忙しくて到底できませんが、一区切りがついたらやってみたいことがあります。一つは、語学。フランス語、韓国語、中国語と英語。語学はいずれも学生時代からかじる程度で中途半端にしてきたけれど、せめて、読む愉しみを深く味わえるようにしたい。独学でもそこそこはいける。韓国へは、プロ野球観戦をするつもり。もう一つは、スポーツ。最近全然できていない。仲間を見つけて野球をしたいがそんな余裕はなかなか見つかりそうもないのでせめて、バッティングセンターにでも行ってみようかと。

レバンテ・演説会の帰りの出来事

昨日の「新春の集い」には、妻と義母、伯母を半ば強引(?)に誘ってしまったので、夕方、御礼も兼ねて、いっしょにファミリーレストランへ食事をしにいったんです(^^)行った感想を聞いたら、伯母が、「昔、共産党に興味がなかったころ、自民党の代議士の演説会に行ったことがあるけれど、演説会なんてそれ以来だわ。宮本岳志さんって、迫力があってよかったね!」と満足げでした(^^)「あんた、原稿を読んでいたでしょ?」─私の演説についても、少しばかり忠告され、初めて参加する人からの新鮮な感想を訊けてよかったなと思いました。おまけに、私がどういういきさつで共産党員になったのかまで尋ねられ、話に花が咲きました。どうでもいい話ですが、私は、大学2年生のときに、大阪の民青同盟の事務所で宮本岳志さんから入党を勧められたことがあります。それが、私にとって初めての日本共産党との出会いではなかったかと思います(まあ、いきなりの勧誘だったので、そのときは断りましたが…)。人の人生、どこでどんな出会いがあるか、わからないもの。私の場合、青年時代に共産党との出会いがあったことで、自分なりに元気に前向きに生きる術を発見できるようになったんだと思います。ファミレスへいっしょに誘った妻の姪のユメちゃんという高校2年生が、「私、進路について考え直した。スポーツ選手にあこがれているけれど、自分には体力がないからあきらめた。専門学校に行きたかったけれど、やっぱり働くしかないな…」まだ17歳にもなっていないのに、自分の可能性をそんなに決め付けるか!?私が「お金のこと心配しとるんとちゃうか?」と訊くと、彼女は、何も答えませんでした。なにものかが彼女を”現実”と向き合わせ、自身の夢をあきらめさせているようで、とてもさびしい気がしました。「僕なんか、4年ごとに仕事変わってるで!この歳になって、いまだに自分に何が向いているのかなんて、決め付けられへんわ」と言うと、「(ユメちゃんは)ああ、そうなんや」と、少し表情を綻ばせました。今日の昼間の会議で、ある同志からの青年・学生問題についての報告と発言を聴きながら昨日のことを思い出し、考えを深めさせられました。若干10代の子に、個性や能力を決めつけさせ、今後の人生について断定づける─若者たちの心を、社会はじわじわと深く傷つけているのだと。

垂水区勤労市民センターで「新春のつどい」

今日は、毎年恒例の「新春のつどい」の日。レバンテ大ホールでおこなう共産党後援会主催の文化的行事です。今年はいつもと違って、プロによるアコーディオンとピアノの演奏が入り、盛り上がりました。シャンソンや歌謡曲の演奏が披露され、舞台と客席との一体感を覚えました。記念講演は、宮本岳志衆議院議員が。迫力のある国会報告でした。つどいの準備ために力を尽くされたスタッフの方々は、たいへん苦労されたことだろうと思います。観るものにとっては、たいへん楽しい企画でした。そして初めて共産党の議員の演説を聴いたという人が、何人も来られていたようです。ところで、今回の”主役”は─私も話す時間を与えられましたが、今回ほどやりにくく、周囲の視線が気なったことはありませんでした。言葉を選び、演説原稿に頼りきり…後で気まずい思いだけが残ってしまいました。私が訴えようとしたことは、日本共産党の存在価値と、春先にかける私自身の決意。客席には、右脳で演説を聴く人もいれば、左脳で演説を聴く人もいる。それぞれの聴き手には感情がある。そんななかで演台と客席とが一体になるような演説を─そうできれば、いいに越したことはありませんが…過去40年来なかった、特別なシチュエーションを乗り越えることは、現時点での私にはかなり難しいことです。これも、自身の人生の一局面として”大局的”にとらえておきたいと思います。

 

ホール全体を暗くしていますが、演台から見える客席は、結構明るく、お集まりのみなさんの顔の表情もよくわかります。

母について

昨日、訪問活動の合間を縫って、携帯電話から私の実家に電話をかけた。実は、実家とは同じ垂水区内でありながらもほとんど連絡をとれていない。最近、母が女性に多いといわれるある病気に掛かったと聴いて、気にはなっていた。かなりきつい薬を服用しているとかで、しんどい毎日を親子3人で暮らしているのだが、思ったよりも電話からの声にハリがあり、少し安心した。掛けたのは夜だったこともあってか、「ちょっと久しぶりにそっちへよっていい?」と訊ねると、「う~ん、今日はええわ」と、愛想のない返事。振られたような少し寂しい気もしたが、病院通いで忙しい日々を過ごしている様子を察し、とりあえず、平穏無事であることを確認できたことだけでも安心できた。昔から”家族同然”でお世話になっていると聞く、生田診療所の武村医師を母は信頼している。私とはほとんど話したことがない先生だが、家族の健康のことでとてもお世話になっており、とても感謝している。

やがて春が来る

もう、毎日毎日冷凍庫の中で活動しているようだ!車のフロントガラスには氷が張るし、ハンドマイクを握っても、口と頭が固まって演説にならない(**;)右手は鉄棒のように冷え切り、訪問中は公衆トイレを探す…。夕方、学園都市駅周辺のビル風は最高だった!!互いの姿は見えない。冬の戦いであり、自分との戦いでもある。閑話休題。今日はうれしいことがあった。20歳の青年が入党を決意してくれた!生活相談活動で親身に援助してきた70代の仲間たちとのあたたかい結びつきが、「二十歳」で人生の門出を祝った!!やっと就職先が見つかったらしい。親孝行もするんだろうなあ♪共産党員の生き方は決して難しい生き方ではないんだよ。いっしょに歩もう!人生を社会進歩と重ね合わせて♂

震災から16年~1月17日をどう過ごしたか

16年前、私は須磨の学習塾で専任講師として働いていました。私立中学・高校の受験シーズンを直前に控え、教材研究に熱を入れていました。震災の当日は、何がなんだかわからず、街中で人が横たわって死んでいるという事実も実感として沸いてこず、あの日も、いつものように生徒を塾バスから迎えるつもりでいたほどのん気に構えていた私でした。しかし、電気もガスも来ない。しばらく電話も通じない…街中で人がたくさん死んでいるんだ、街が燃え続けているんだ!現実を現実として受け止めていくうちに、自身のふわついたこれまでの生き方への疑問と恥ずかしさを感じ始めたのもその瞬間だったと思います。全国から支援の輪が広がり、青年がボランティアに立ち上がり始めた!弁護士を志していた当時の友人とは、「こんなときに受験産業なんかやっててむなしいなあ」などと、互いに生き方について語り合うようにもなりました。さて今朝、久しぶりに諏訪山の展望台へ登り、早朝の追悼式に参列しました。午前5時46分は、氷水を体全体でまともに浴びているかのような酷寒の夜明け前でした。高台から見下ろす風景はまだ薄暗く、東の空の夜明けを首を長くして待ちわびているかのように、電気の光がビル街を横たわっていました。トランペット奏者・松平晃さんの音色は絹のようにやわらかく、”百万ドルの夜景”と響きあっているかのようでした。日中、市内各地で追悼集会がおこなわれましたが、私は参加を断念し、時間の合間を見つけて垂水区の災害公営住宅の各戸を訪ねることにしました。「兵庫区で全壊しました。今は落ち着いていますが、できることなら、前の家に戻りたい」「今は、夫の介護に付きっ切りです」「借り上げ住宅に住んでいらっしゃる方、これから大丈夫でしょうか?」とても寒い日に、突然家のチャイムを鳴らして訪ねた私に、ドアを開け話して下さった高齢の方々からの一言一言─。訥々とした訴え方から、神戸の現実が伝わって来ました。※写真は、諏訪山公園・ビーナスブリッジにて。午前6時過ぎ。