「赤旗」に掲載された嬉しい記事

    “ウクライナで倒壊された共産主義者の偶像がイングランドで修復される”─
    エンゲルスの彫像がイギリスの大都市、マンチェスターで再建された記事が、先日の日刊「しんぶん赤旗」に掲載されました。

    2017年に市議会決議に基づき、同市に建てられることになったのです。

    マンチェスターはエンゲルスとその父が大工場を経営していた町です。

    元になる記事は2017年8月6日付の米紙・ニューヨークタイムズ。

    マンチェスターでは、96人中94人が労働党の市議会議員で占めていて、社会主義に好意的な強い気風があるようです。

    今年の労働党党首選挙の候補者として善戦した、愛称“ベッキー”ことレベッカ・ロングベイリー下院議員もマンチェスターが基盤の女性議員です。

    エンゲルス像再建に直接手掛けたのは、芸術家のフィル・コリンズ氏。旧ソ連崩壊後に倒壊されたので、見つけるだけでも困難を極めたようです。

    東ウクライナ地方のポルタヴァという町で上半身と下半身が半分に割れた状態で発見されたものを、エンゲルスの生誕地・ドイツのバルメン(現在のブッパータール市の一部)を経由して実現するまでに10年越しだったそうです。

    高さは12フィート(約3.65ートル)。

    エンゲルスは今日でも、マンチェスターでは深く敬愛され、2017年にセレモニーが行われたのは、はロシア革命(1917年)の100周年を記念してのものだそうです。

    「マルクスの理論そのものには問題があるのではなく、旧ソ連や東欧の政権が全体主義と圧政を強いたことが問題なのです」と語った市民のコメントも紹介されていました。

    続けて記事にはこう書かれています。

    「彫像を新たに建てたことは、市のエンゲルスへの敬意にとどまりません」と。

    地元のソルフォード大学では、「エンゲルス像の誕生は、次の世代の芸術家、音楽家、役者を奮い立たせる」と主張しています。

    また、エンゲルス像が新天地に来たことによって、町の人々が考え、議論することを期待する声も紹介しています。

    セレモニーを主催した方たちは、公正な社会実現のために市民がこれまで以上に政治的に目覚め、団結することを願っているようです。

    イギリスではかつての植民地支配を推進した権力者や積極的に協力した有力者の銅像が次々と撤去されてきています。

    マルクスとともに科学的社会主義の創始者の一人として奮闘したエンゲルスを資本主義の大国で、日本共産党のような政党が存在しない国で、市を挙げて建立される。

    とても嬉しく読みました。

4連休中は垂水区内を街頭演説(^^)/

    4連休(9月19日~22日)は垂水区内を街頭演説して回りました。

    <写真─西舞子で>

    手伝ってくださる方々が増え、大変心強かったです。

    菅内閣の「高支持率」なんて、なんのその!

    <写真─青山台で>

    演説中に、「お久しぶりです。頑張ってください!」と菓子パンをたくさん届けてくださったり、

    <写真─舞子台で>

    道行く人が声を変えてくださったり…

    しっかり、政策を訴えて回ることにやりがいを感じてきました(^^)/

    動画です↓

総選挙での躍進には、兵庫での大奮闘が。

昨日は元町大丸前で街頭演説会でした。

穀田恵二国会対策委員長・衆議院議員

宮本たけし前衆議院議員

清水忠史衆議院議員

こむら潤尼崎市議の各比例区予定候補と、私を含めて4人の兵庫県内の小選挙区予定候補がそろい踏みでした。

応援弁士には、田村智子副委員長・参議院議員が。

たいへん迫力があり、わかりやすく評判です。

壇上の後で気が付きましたが、演説準備用のノートを持参されていましたが、まったくページを開かずに数十分間の熱弁をされていました。

何も見ずに話を流暢に力強く展開していたのですね!

穀田国対委員長が、兵庫での大奮闘が近畿での議席増に大きくかかっていることを強調されていました。

2回目の総選挙で堀内照文さんを国会に送った経験からも明らかなことです。

兵庫県から国会議員を!

責任を感じます。

須磨区でも垂水区でも。

    須磨区内で活動する機会が増えてきました。

    名谷駅前で。

    妙法寺駅前で。

    スーパーマーケットの前からも。

    「”総選挙近し”とチラシを受け取る人が増えて来た感じがします」。

    地元の後援会の方から、感想をお聞きしましました。

    後援会の集会にも招かれました。

    安倍総理大臣は辞任を表明しましたが、政治の中身こそ変わらなければいけません。

    ① 憲法にもとづき、立憲主義、民主主義、平和主義を回復しましょう。
    ② 格差をただし、暮らし・家計応援第一の政治に切り換えていきましょう。
    ③ 多様性を大切にし、個人の尊厳を尊重する政治を築きましょう。

    須磨区と垂水区で、国政への願い・要求を届けていく活動に専念しています。

上井草球場の資料を買いました(^O^)/

今年の夏はコロナ禍のため、県外に出ることなく過ごしてきました。

昨年夏のことを書きます。

杉並区立郷土博物館というところを訪れました。

閑静な住宅街にありながらも、なかなか風情のある外観の博物館です。

当博物館を知ったきっかけは、プロ野球。

何気なくインターネットを検索したいたら、上井草球場にまつわる資料を販売していることを知ったからでした。

上井草球場──黎明期のプロ野球(当時は、職業野球と言われていました)の専用球場です。

「東京球場」と呼ばれていたようです。

私は飛びついて杉並まで、盆の休みを利用して足を運びました。

写真が、お目当てにしていた2冊の資料です。

以前に特別展を行った時のものだそうです。

1936(昭和11)年に落成しました。

後楽園球場が完成する前の職業野球のメッカでした。

両翼が100メートル余りあります。

30000人弱を収容できたそうですから、学生野球のメッカである神宮球場に勝るとも劣らない造りだったそうです。

「またメーン・ハウスの2階を休憩室にしてお茶を飲みながら野球を見れるようになっているのも一寸(ちょっと)嬉しい設計である」(1936.8.25付「讀賣」)と当時の新聞が報じています。
(新聞記事は、東京ドーム内にある野球殿堂博物館で入手しました)

この球場を本拠地にしていたのは、東京セネタースというチームでした。

苅田久則選手(監督も兼任)や野口二郎投手はあまりにも有名です。

戦後はプロだけでなく、東京六大学野球や軟式野球の試合にも使用されましたが、次第に野球よりも他のスポーツレクリエーションへの要望が強くなったようです。

プロ野球の最後の試合は1950年8月(4日の東急フライヤーズvs毎日オリオンズ戦、阪急ブレーブスvs大映スターズ戦)でした。

現在は、杉並区立のスポーツセンターになっています。

70年前までプロ野球で使用されていたことについては、”知る人ぞ知る”といった感じ。

貴重な資料に巡り合えてよかったです。


(とある日、自宅の近くで。私は左利きです)

まあ、とにかくコロナ禍が収束したら、野球の観戦に行きたいな!

国政に願いを届ける架け橋に

    7月17日に記者発表をしましたが私はこの度、衆議院兵庫3区の予定候補者として活動することになりました。

    市議を3期務めて来た経験を国政に活かしていきたいと思います。

    消費税は5%に戻す。

    少人数学級をこどもたちに。

    ぜひ、実現していきたいと述べました。

    立派なポスターが出来ました(^O^)/

    これまでも続けてきた駅頭宣伝にも、気合が入ってきます。

    垂水駅前から。

    朝霧駅前から。

    7月の豪雨災害で被災地への救援募金を訴えました。

    1時間で11000円以上集まりました!Σ(・ω・ノ)ノ!

    お盆は宣伝カーで垂水区内を。

    茹だるような暑さ…

    終戦75年。

    平和憲法を守り、生かしてこそ国民の生活を良くすることができる。

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